乙和のツバキについて
乙和のツバキとは、佐藤基治公、乙和御前夫婦の墓碑の傍にある古木で、乙和御前の悲しみ、そして母情が乗り移ったのか、つぼみのままで開かずに落ちてしまう椿です。
奥州藤原氏の下で威勢を振るっていた佐藤氏は、医王寺の大鳥城主。その子、継信、忠信兄弟は忠臣として活躍しますが、継信は屋島の合戦で義経に向けて放たれた矢の盾となって戦死。忠信は、兄の頼朝と不仲になって、京都で苦境に陥った義経の身代わりとなり、討死にしました。
夫の戦死を知った兄弟の妻たちは悲しみを抑えて甲冑(かっちゅう)をまとい、兄弟ががい旋したかのように装って、悲嘆する兄弟の母、乙和御前を慰めました。
→楓と若桜について
頼朝によって佐藤一族が滅ぼされた約200年後、医王寺境内にツバキが植えられました。しかし、乙和御前の悲しみで、花はつぼみのまま咲かずに落ちてしまいます。
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医王寺について
いつしか人は、この椿を「乙和の椿」と呼ぶようになりました。
わずか2m離れた場所に、同時期に植えられたとされる椿の古木がありますが、こちらはきちんと花が咲いています。
楓と若桜について
佐藤継信公の奥方「若桜」、忠信公の奥方「楓」は、共に当地に居て、義経公の身代わりとなった二人の冥福を祈る日々であったが、また一方わが子二人までも失った老婆「乙和」御前の悲しみは大きいものがあり、それをどうにか慰めたいと計り、兄弟の武将の姿になり、姑を慰励しました。
その姿の人形が本堂にまつられています。
楓
若桜
医王寺について
医王寺は瑠璃光山医王寺といい、平安時代淳和天皇の御代、天長3年(826)の開基で弘法大師御作の薬師如来をおまつりしています。
当地方を信夫といい、信夫の荘司であった佐藤基治は治承の昔(1177)大鳥城を居城とし奥州南部の広域を治め、非常な権勢を持っていました。信仰心の篤い基治は、御堂を改修し堂塔伽藍を建立し源氏の再興を祈願し一族の菩提寺として寺門を興隆させました。
時は移り変わっても、継信・忠信兄弟の忠誠とその奥方たちの孝心は人々の心を打ち、松尾芭蕉や松平定信等の文人黒客をはじめとして多くの人々が医王寺を訪れ、香華を手向けております。